おじいちゃんの従軍記
60年前の戦争従軍記  今「私」が生きているということは偶然に近い確率なのだ。
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原文1 昭和57年記す
終戦後、最早三十六年、悪夢の様な当時を省みて薄れかけた記憶を呼び起こして悲惨な戦争、私達の青春の運命を書き残す。私達は何のためらいもなく否、名誉な事と思い込んで征途についた。
 勿論祖国が外敵に依って攻撃を受けた時は、若い者が一線を守るのであればそれは当然の事と思う。戦争にどちらが正しいと言う事は簡単な事ではないにしても、各々の指導者達は人類愛の原点に立って物事を処理し、国民総て冷静な判断が必要だろう。一旦戦争となれば相手に殺される前に相手を殺さねばならないという悲惨なる現実がある。聖戦だ、御国の為だと信じているうちは良い。幼児からの人間教育が如何に大事なことであるかとつくづく思う。

【昭和14年5月14日 臨時召集】

 昭和十四年五月十四日午前十時、臨時召集により西部第四十七部隊に入隊を命ず。
 それは私が二十一才、県立諫早農校青年学校臨時教員養成所入学約一ヶ月の朝である。石木の中村君が父からの手紙を預かってきてくれたので分かった。あと二日しかないので早速河野主事に申し出、農校第一号の召集兵として学校全員の盛大な歓送を受け、寝具等をまとめ学校で作ってくれた赤ダスキをかけて諫早駅まで見送ってくれた。
 校友達と別れて帰宅の途についた。帰宅早々親類知人等に挨拶もそこそこに、今後どんな運命が待ち受けているかも分からないまま、懐かしい我が家を後に西部四十七部隊の門をくぐった。同日川棚からの入隊者は有川君など四、五名だったと思う。九時頃原隊に到着、早速古兵に引率されて内務班へ、第二中隊(吉川隊)身体検査も異常なく、だぶだぶの軍服を着せられて俄作りの新兵さんが出来上がる。当日は古兵達がとても親切で軍隊って良い所だと思った。 
 翌日あたりから古兵の態度ががらりと変わり厳しい内務班教育が始まる。歌にもあるが五尺の寝台わら布団、毛布の整理が悪いと木銃で突き返され、吸殻入れの員数が足りない、銃剣の手入れが悪い、安全装置が忘れられている、と鼻を手の平でねじり上げられる。往復ビンタは毎夜の事、梁にぶら下がって鶯の谷渡り、一人が悪いと全員が殴られる。飯釜の飯上げ、食器洗い、内務班長以下古兵の洗濯物、文字通り目の回る忙しさ。食器洗いに行けば水の出の悪い蛇口、態度が悪いと単元上等兵に飯粒のついたしゃもじで殴られる。洗濯物を干しているとさしくられて、さしくるのが一苦労、まるで泥棒の教習所みたいである。時間がくるとほう虎原練兵場、右向け左向け一、二、三。据え銃、下銃、構え銃、たまの日曜に家族の面会が唯一の楽しみ。それから酒保のアンパンがとてもうまかった。訓練そのものは我々青年学校経験者には余り苦にならない。それに軍人勅諭暗記は一週間足らずで覚えて他の初年兵より大変得をした。
 同年八月始め、大野原訓練のため千綿経由強兵坂登り、大野原兵舎に寝泊りして夜間演習など一期検閲約一週間、帰路は嬉野温泉で大休止、湯に入りに行くと、石丸の養女ます子さんの姉さんが帳場に務めていると言って来ていて、実家に案内されサイダーなどご馳走になった。
 帰路彼杵国道を軍靴の音も高らかに軍歌を歌いながら原隊へと急ぐ。翌日から池田射撃場で実弾射撃訓練が始まる。心で引くな目で引くな、暗夜に霜の落ちるが如く、これが射撃の基本である。
 二、三日経って深夜非常呼集があり、臨時召集者の大半は南支広東省に駐留する。歩兵第五十五連隊補充員として出勤を命じられ、翌日早速真新しい軍服兵器が支給され、八月十二日進軍ラッパ先頭に衛門を出る。その日門司港に着き民宿一泊、翌日七、八千トン級の輸送船に乗船、いよいよ母国を後に東支那海へ旅立った。初めて見る外洋の広々とした海に、時折飛び魚が無数にまるで小鳥のように飛び去って行く。一日毎に暑くなって段々南下しているのが良く分かる。台湾海峡付近に来ると海水が益々蒼く濃くなり、夜は航跡に夜光虫が神秘的な光を放って、戦地に向かっている事も忘れそうだ。
 この辺りから中国沿岸の島々が無数に見える。またこの付近から海水が濁り始める。南支
最大の珠江の濁水の影響である。右手には香港もかすかに見える。中国の漁船であろう白い帆のジャンクが無数に浮かんでいる。やがて珠江の河口付近らしい対岸の緑が目につく。バナナの葉らしい。珠江の流れはいよいよ黄色に濁り、やがて河の中程に赤茶けた大きな島が見えてきた。南支進攻で有名な虎門砲台のあった島で砲台の残骸らしい。ここから広東市は近い。
 やがて輸送船は黄浦石牌というところの岸壁に停泊。ここの桟橋には沢山の9苦力達が黒い中国服を着て働いていて、上陸第一歩の印象はただ珍しかった軍の平坫部である。ここから汽車で一寸行った所に中山大学があり、そこの中山大学は中国随一の大学で、青い磁器製の瓦に、隅々には独特な彫刻が施され、夕日に映える様は正に竜宮城である。周囲六キロ平方の雄大な建築で、この中で農学院が五十五連隊の宿舎で、直ちに中隊配属が決まり、第二中隊配属南支派遣、百武部隊、鈴木部隊、寺田隊第一分隊、中隊の准尉が諫早出身の山崎准尉で大変助かったと思う。大村の原隊とは大分違った空気で、半ば戦争疲れした古兵が多かった。初年兵いじめも余りなく休養も良かった。広東に日水の支社があり、鯛に似た赤魚が毎日のように食べ切れない程だった。
 一週間ばかり訓練したら中隊は広東市内警備の任に着くようになり中愛恵路の南端に分哨勤務。その頃は広東の市内はまだ治安が悪く、夜間には銃声が時折聞こえる程で、敵のゲリラが潜入しているとの話であった。一ヶ月ばかりで市内警備を解かれていよいよ最前線警備の命令が出て、広東から二十里ばかり離れた福和墟という所へ他の部隊と交替させられる。ここは一寒村で部落もまばらで、田圃や畑が多く、部落の中に小高い丘があり、良く展望の利く最前線で敵襲が度々あり、友軍の犠牲者が多く出た所で緊張の連続である。
 果たせる哉、交替の当夜不寝番が(実は私の戦友一等兵)が前任部隊の兵を誰何したが、応答がなかったので銃剣で刺してしまった。幸い軽い傷で良かった。警備線内は厳重な鉄条網で囲まれて物々しかった。ここから大平城という所まで約四十㌔の線を一大隊で警備、大隊本部は二里ばかり離れていた。
 展望所分哨には山砲一門、それ中隊本部前に重機関銃が二機、戦争でなかったら平和な所で南支特有の迎春花が咲き、部落の外に十五㍍程の綺麗な川が流れていえ魚も沢山した。非番の時はよく釣りをした。鯉に似た大きな魚が釣れたので刺身で食べた。
 三ヶ月ばかりして初年兵だけ二期の検閲受閲のため完全軍装で真夜中に福和墟を出発。大平城まで夜行軍、夜明けとともに三百㍍ばかりの高地の頂上占領で検閲を終わった。最後まで落伍者もなく背丈の小さな兵隊ばかりなので連隊長も心配していたらしかったが、思いの外使い物になると好評で二期検閲も無事終わった。
 早速福和墟に戻り二、三日経った夜中、迫撃砲を有する推定一ヶ大隊ぐらいの敵襲である。前方の部落から犬の遠吠えが聞こえ、それぞれ配置に着く。その夜運悪く中隊長は本部に行って留守、山下中尉指揮の下、敵が鉄条網の線まで近づく迄一発も撃ってはならないとの激令で、息を殺して待った。それから機関銃、小銃で盲目攻撃である。一番南側の分哨に手榴弾を投げ込んだので分哨が応戦撃退。井村軍曹分哨長が負傷しただけで他に友軍が一発も応戦しないので敵も気味が悪かったのだろう。夜明前に無数の薬きょうを残して引き揚げた。初年兵には最初の戦闘なので張り切っていたが結局拍子抜けの感がした。翌日はこちらから前方部落掃蕩に出かけた。
 それから数日後部隊は増城に集結、いよいよ翁英作戦が始まる。増城より約二百里もある翁源という所迄その付近に敵の本拠があるとの情報で、約三ヶ月の予定で友軍の兵力はニケ師団、携帯弾薬八十発、手榴弾二発、携帯食糧約二週間分、背嚢銃帯剣約四十㎏の重装備で、行軍が開始された。山また山の連なる地形で、其の合間に同じ様な部落が点在し、五万分の一の地図を頼りに進撃で、最初は友軍の進撃を待ち受けてゲリラ的に抵抗して、敵も奥地に入るにつれて抵抗も激しくなった。大部隊に遭遇したのは梅江鎮という所で割合広々とした農耕地帯で、尖兵部隊は相当激しく撃ち合ったらしかった。敵が退却の時焼いた橋がまだくすぶっていた。
 ここで大休止となり我ら初年兵は炊事の支度で大忙し、川辺で飯盒炊さんを始めたが面倒なので住民の逃げた家に入り釜を探そうと物色していたら奥の方でこそこそ物音がするので用心して入ってみると、負傷兵らしい若い男が寝台に横たわり母親らしい人が看病しているらしかったので、私は気づかぬ振りをして釜だけ持ってそこを出た。初年兵の私に見つかったので敵も幸運だった。
 いつもの事だが我が連隊は健脚部隊として迂回作戦に利用され、普通の倍の道のりを歩かされた様だ。不意に撃ってくるゲリラ部隊に悩まされながら一大盆地に出た。ここは敵の弾薬庫、兵器庫があり、岩山の洞窟に無数の弾薬があり、友軍の工兵隊が火を付けたので破裂音が鳴り止まず、時折ちょう弾があちこちから飛んできて始末が悪かった。
 ここまで来る間色々の事があった。金竹仰では敵兵が頭に被弾したらしく頭蓋骨だけ残し脳みそが全部流失して割れていた。こんなに潔く戦死したら何も言う事ないなあと話し合って、明日とも知れぬ我が身をいとおしく思った。
 その夜、分哨に立っていると下の溜池で鯉のはねる音がしたので、立哨交替後直に溜池の堤を切っておいたら夜明にすっかり干上がり、いるわいるわ部隊全部魚すくいでみんな喜んで刺身に舌つづみ、その機転を大変ほめられた。
 甘栗古城を占領して丸一日進んだ所で急に行進が止まり、部隊に入ってその夜はそこで一泊。丁度旧正月で人の居ない土民の家には正月用のご馳走が色々あった。紹介石休養とばかりご馳走になる。もち米で作った甘酒、豚肉、だんご。
目的地迄まだ少しあるのに急遽特進命令で、南寧守備部隊が敵の完全包囲を受けて苦戦、との報に作戦中止、南寧救援のため直ちに転進せよとの命令である。広東に向かって相変わらずゲリラに悩まされながら帰路に付く。従化北方の峻剣の中腹を幅二㍍の山道が延々と続いた所で悲惨な光景が展開していた。進撃の途中で起こったらしく、山砲隊が馬は砲を背負ったまま千尋の谷底へ累々と落ちているのだ。先頭の馬が突然の銃声に驚き棒立ちになり、後退しかけて次々と転落したそうで下の谷川は鮮血に染まっていた。他に水がないので其の水で夕食をしたが生臭い様な変な味がした。
 二、三日行軍して従化に到着。ここは友軍の一大野戦基地で、師団の野戦経理が出迎えて行軍中の兵にビール一本、サイダー一本を配給して戦闘の疲れを慰めてくれた。何しろ出発から一度も風呂にも入らず洗濯もしないのだから顔は真っ黒に汚れ、ヒゲは伸び放題、体中しらみ、とび虫でかゆくてたまらない。早速温泉に入り、ドラム缶で湯をぐらぐらに沸かしてしらみ退治。やっと生心地が付いた翌日一日だけ休養、水泳などして英気を養った。二日目には、軍用トラックで、広東のふ頭へ、輸送船団は我等を首を長くして待ち構えていた。それ程南寧の状況は必迫していたらしい。直に乗船、雲南省の蚊虫山と言う港に上陸、またまた行軍が始まった。
 道は広々として立派な道路で元来援将ルートとして敵が利用していた路である。ここから南寧市は約四、五十里の所である。敵の包囲は厳しくあなた達の運命は風前の灯だ、早く降参した方があなた達のためでしょう、と毎日繰り返し放送したそうで、只今あなた達を助けに十八師団が蚊虫山に上陸しましたが、ここまで到着するには少なくとも二週間はかかるでしょう、と言っていたそうで九日目に敵の横腹を突いたので、流石の敵も包囲を解いて退却し出した。逃げる敵を追って急進撃が始まった。
 この付近一帯は砂糖の産地で至る所砂糖きび畑で、帯剣でたたっ切ってそれをかじりながら行軍した。また土民の逃げた家には十㎏角位の砂糖(黒)がどこの家にも亀一杯に詰まっていた。その黒砂糖を雑のうに一杯詰めて見たが重くて途中で捨てる始末である。副食も皆んな砂糖煮で飽き飽きする始末。突然前方に銀色に輝く山波が見える。雪ではない、鉱山である。錫の山で無尽蔵の宝の山だ。この付近を緬羊村と言う地名だったと思う。広西省は広々として割合住民も広東省に比べ生活も豊かそうに思えた。
 一応賓陽の近くまで進撃した時、敵の大部隊が我ら右側から進攻しつつあるとの情報で、恐らく敵も手持ちの精鋭部隊を以て広西平原に一大決戦を挑んできたものらしい。
 果たせる哉、翌日早朝戦車を伴う敵の大部隊に遭遇、決戦の火ぶたが切って落とされた。我らが最前線に到着した時は友軍の砲はあるだけ砲列を敷き、砲撃戦の真最中、速射砲、連隊砲、山砲で約千㍍の向こうから戦車十台ばかりを最先頭に、友軍目掛けて進撃して来るのが肉眼ではっきり見える。直に歩兵部隊にはTB爆弾が支給される。丁度大型のケース入り巻尺位の戦車肉迫用磁気性爆弾で待ち伏せて、戦車にくっつけると爆発する仕掛けで、敵戦車の砲撃がぴたりと止んだと思ったら最前列の戦車に友軍の砲弾が命中、都合三台が燃え上がり、後の戦車は方向転換後退し始めた。TB弾を胸に悲壮な決心で前進していた我々も一様にほっとして、無数の敵を追って一大追激戦が展開された。
一丁小さな丘を占領した時耳たぶが急に熱くなる程の至近弾が来たので急に石影に伏せた時、直ぐ隣を走っていた戦友の谷口一等兵が後ろにばったり倒れた。一丁弾は眉間に命中、鉄兜とも数㍍吹き飛び、一瞬のあっけない戦死である。
 保坂曹長と夢中で坂を駆け上がりやっと凹地にたどり着く。そこで中隊長は残存の中隊をまとめ、流石老練の准尉から成り上がりの中尉殿で、正面からの攻撃は不利とみるや凹地を一大隊の最右翼に出た。部落から三、四㍍の田圃の中を横切る我らを発見した敵が盛んに撃ってくる。真横から足元すれすれにぴゅんぴゅんと音を立てて来る弾も誠に不気味なものでここで二名何れも被弾。負傷者を川辺の木の下に衛生兵付き添いで残し、一応部落の後方の小高い丘を占領部落から三、三、五、五逃げる敵を射撃していたら、友軍が敵と間違い、連隊砲を撃ち込んで来た。これはたまらんと松の木に日の丸を挙げに登ったら敵に狙撃されまた負傷、全く始末の悪い結果となる。
私は小隊長命令で衛生兵と負傷者を誘導すべく広い田圃の中を、大村出身の松崎一等兵を連れて一目散に駆けた。ところがまた敵と友軍の真っ只中なので前から友軍、左横から敵の集中射撃で閉口した。途中小さな川がありその中に飛び込んで日章旗を背のうから出していたら川下から敵の退却兵が五、六人上がって来る。丁度柳みたいな茂みがあったのですばやくその下に潜り込み敵をやり過ごした。六、七百㍍前方の広い道路を埋め均して敗走する敵を軽機の一斉射撃をするのだが残念ながら遠過ぎてあまり効果がない。地団駄踏んでくやしかった。
早朝から始まった攻撃だったので食事も出来ず午後四時頃まで追撃した時、前方に土煉瓦で囲まれた一寸大きな部落に逃げ遅れた敵の一ヶ連隊の部隊が立てこもり、それを友軍の豆戦車が突入して攻撃したため、一旦は敵は白旗を掲げたのを更に撃ちまくったので敵も死に物狂いの抵抗となり直ぐ手前の丘をかけ下がる。日章旗を銃にくくり付けたが、幸い五百㍍ばかりあったので弾は全然当たらなかった。やっとの思いで負傷兵の居た場所にたどり着いたが三人共姿はなく、また中隊の地点まで撃たれながら戻った。後で分かったのだが、負傷兵は片足貫通したばかりなので、止血して衛生兵が大隊の医療班へ送り届けていた。
辺りは漸く薄暗くなっていた。後方に残した二名の負傷兵を大隊本部の医務班へ誘導のため、敵の退却兵の中を大村の松添一等兵を従えて田原の真っ只中を引き返し、敵と友軍から撃たれ閉口したが、走っていれば弾はなかなか当たらないものだという信念が湧いた。友軍の大隊主力は部落の前の道路に釘付けされ大隊長自ら抜刀して突撃したらしかったが、土壁の民家に立てこもる敵の抵抗は死に物狂いでその都度犠牲者は続出。
薄暗くなって二中隊はR本部の所まで戻るように命令。大隊の戦列に戻ったら大隊長の機嫌が悪く、今迄どこに居たのかと大目玉。直ぐに二中隊先頭に部落を突破せよ、との激令。早速第一小隊先頭に突入したらバタバタと倒れた。大村の山添軍曹、松井上等兵など四、五名犠牲者を出して一歩も進めない様な状況で、遂に大隊長もあきらめて砲とてき弾筒で無数の弾薬を撃ち込んでそのまま部落を避けて前進した。
翌日も更に追撃、この付近の抗戦意識は強く敵兵の中には娘子軍、学徒、中には十才位の子供がいてびっくりした。母親が縫い付けたのか中国銅貨を背衣に縫い付けていた。何れの国も同じて国の為、戦士達の武運を祈った気持ちが分かる。この少年は兵器を持っていなかったので直ぐ放たれた。それにしても十才位の少年が日本軍に捕えられても泣き声一つ出さず、むしろにらみ付ける様な面魂に中国国民の抗戦意識の高さを見せ付けられた様に思った。
その翌日私は重大な失敗をした。部隊大休止の時すぐ近くの部落から豚が走り出て来た。その豚を捕らえようと市川上等と二人で追った。夢中で追っているうち私の帯剣の剣身がどうした訳か抜け落ちているの気付いた。豚どころの騒ぎではない。散々探したが遂に発見出来ず、翌日から剣身のないのを気付かれない様にはらはらしながら行軍していたら、丁度負傷兵の装具から市川上等兵が抜き取って来てくれた。兵器を無くしたら重い罪である。市川古兵は大変侠気のある人で五島の人だった。本当に地獄で神様の様であった。
長追いは不利とばかり賓陽作戦も一応中止となった。翌日から帰路につき南寧市へ、ここでそろそろ満期話が出て喜んでいたらまたまた海南島掃蕩作戦に特進命令である。当時の海南島は海軍が守備し飛行場が海口という所にあったが、敵のげりら部隊が出没して被害を受けてた。島といっても丁度九州の広さあり、全島椰子の緑で、島民の生活も本島とは比べ物にもならない程豊かな所である。長い戦闘の疲れも取れぬうち、早速蚊虫山港から乗船、海南島海口市上陸、椰子の林が珍しく、海口ギ院という映画館に宿泊。その夜憲兵隊の人が訪ねて来て川棚の人だったが名前はどうしても思い出せない。私より二つばかり上の猪乗の人だった様に思う。早速憲兵隊の風呂に呼ばれ分隊一同戦塵を洗い落としてさばさばした。
二、三日経って早速作戦が開始された。陸軍部隊は島の北部から、海軍陸戦隊は南から海陸の共同作戦で、敵を中央に圧迫して全滅する作戦であった。島の中央に楡林という町がありそこで落ち合う手筈になっていた。大陸と違って敵の大部隊には遭遇しなかったが、いたる所で少数のゲリラ部隊と戦闘があった。
出発してから四、五日目尖兵中隊で敵の不意を突く作戦で、更に尖兵小隊として迂回作戦、隠密行進を続けて午後二時頃、見通しの良い台地に敵の所在を探していると、十名程の便衣を着た男が友軍の本隊の行進を見守っている。始めは土民と思っていたが双眼鏡で確かめると銃が後ろの木に立て掛けてあり、行李の様なもの、アヒルの入った籠など並べ全員腰を下ろして本隊の方に気を取られて気付かない。距離約四百㍍軽機二機で一斉射撃したのだが命中しなかった、が小銃や行李の書類など多数分捕り、本隊に合流して少し前進した時である。後尾の方で急に銃声が盛んにし出した。我々が分捕った書類は敵の重要書類で、ゲリラ組織の海南島本部のものであったらしく、友軍の最後尾付近を行進していた衛生隊小行李班が襲われて多数の犠牲者を出した。直ちに戦闘配備に付き、逃げる敵を追ったが敵もさる者、逃げながら時々狙撃、なかなか正確で戦友の中野上等兵が足を撃たれてしまった。
丘の中腹を這伏前進していた時、あまり暑く喉がからからで水筒の水を飲もうとしたら目の前に赤い木の実が一杯実っている。良く見ると熟れた山桃である。高さ二㍍の小さい木一杯実っている。全員前進していたので悪いと思いながらむさぼり食った。後で話したらうらまれた。
海南島は椰子の木に大変助けられた。第一暑さも凌げたし行軍途中喉が乾いたら椰子の実に穴をあけ重さ四、五㎏もある青い実を抱く様にして飲んだ。そして非常に冷たく少し青臭さはあるが牛乳の様な味がした。小休止にでも鋸をもった兵隊が一本切り倒すと十個から二十個位い、子供の頭位いの実が鈴なりになっていた。しかし反面ゲリラ部隊にはそれが好都合で突然出没するので油断できない。楡林の手前で突然射撃され山崎准尉の肩章を吹き飛ばした弾が直ぐ横にいた森野一等兵の足を貫通した。
また忘れることの出来ない不祥事も起こった。高地の見晴らしの良い所で大休止して食事も終わった時である。我が分隊の初年兵が古兵の銃を掃除しようとして基本通り操作していれば間違いないものを、古兵隊の後方で弾倉を調べず銃口も上に向けず撃鉄を引いてしまった。丁度その古兵は尖兵として行進した後だったので弾抜きをしておらず、丁度後ろから腹を貫通して食べたばかりの食物が前に噴出して、ああと言った切りだった。本当に気の毒な出来事で当の初年兵は海口に帰ってから重営倉に入れられてその後どうなったか。
楡林の手前で作戦を終わりまた海口に戻った。この付近には珍菓ライチも沢山あった。それからリリアンの実も多かったが臭くて口に合わなかった。約一ヶ月で海南島掃蕩作戦も終わり古巣の広東へ舞戻り、今度は広東の市内警備。思えば翁英作戦以来約半年、その間ゆっくりした駐留もなく作戦行動ばかりだった。広東市内は第一回の時より治安も回復していた。
第二中隊は市内の中央愛郡ホテルの近くで珠江岸の広東唯一の発電所と珠江に架かる海珠橋という橋の警備、夜には市内の巡察が主な任務で、やっと落ち着いた駐留機関で日曜には外出も許された。支那料理など珍しい料理も食べに一流の大三元というレストランで食べた。
市内警備も三ヶ月で終わり今度は石竜警備。ここは広東の東方で彼のバイアス湾上陸部隊の古戦場で、バイアス湾から広東に通じている鉄道の要所で、中国の鉄道守備部隊の加農砲が赤錆て残っていた。一見広々としたデルタ地帯でクリークが多く日曜にはよく釣りをした。夜ともなれば隣接の部落から、どらや胡弓の音が聞こえて戦地かと思われるほどの豊かな田園地帯であった。
ここで林田軍曹以下六、七名の補充兵が来た。いわゆる沙波補充で岩下啓作君達が四名隊に来たのもこの時である。間もなく中山大学に帰りその年の現役経兵が補充された。川棚の人も多く木下正雄、新森、石川、吉崎、吉川。ここで陣容を新たにした部隊は石橋塘にR本部を置き、一大隊は再び福和墟警備、昭和十六年後半は専ら体力作り、田圃を利用して走ったり飛んだり、私の記録は百㍍十四秒、高飛びは全く不得意だった。中隊長も大森中尉となる。
十一月に帽芳山の掃蕩作戦の前に、期間こそ短かったが非常に苦労した東江作戦がある。バイアス湾上陸コースを逆に、新塘という町に敵が進出しその数二万と推定、との情報で増城から一週間で敵に察知されない様北方に出て退路を断て、との命令で至急増城に集結、その夜出勤した。
丁度南支は雨期で田植時だった。途中に大きな川が幾つもあり、珠江の一大支流である東江に沿って田の畦道を一ヶ師団からの部隊が進出、夜を日につぐ急進撃、うっとうしい暑さ、大休止なく小休止の時間飯を炊くのだが半熟の飯を次の小休止まで背嚢にくくり休む暇はない。靴など脱ぐ暇もなく足は死人のようにふやけ、豆は出来て潰れ、股ズレがひどくズボンも脱ぎ、外被一枚の兵隊も多くいた。泥んこ道、大きな川は鉄舟部隊が渡してくれたが、小さな川は装具を頭に乗せて川砂に足を取られながら渡河した。歩兵はこんな風だったが鉄舟部隊の苦労も大変である。鉄舟を三等分したのを馬に積んで居るのだが北海道のたくましい馬も泥んこ道には動きが取れず、足が抜けなくなり死んだ馬もいて可哀相であった。
歩兵部隊もどんどん落伍者が出て支離滅裂の行進が続く。私も指揮班の初年兵で佐世保の永元一等兵が落伍したので彼の銃も背負い弾薬の余分なもの、手榴弾など捨てさして中隊の後を追ったが段々遅れてしまった。中位の川の線までやっとたどり付いた時は辺りは落伍者の山である。そこで永元一等兵は兵長殿もう歩けませんと言って番小屋の様な家に倒れこんでしまった。実は私ももう限界で一緒に横になってしまった。
何時間経ったのだろう、夢を見ていたらしい。それは私の妹が国で病気で、姉が枕元に立って妹が危篤だから帰って来いと言うので私は戦争中だから帰れないと言ってもなかなか聞かない。ハッと気付いて目を覚ましたらもう辺りは夕暮れ時で幸い友軍の衛生部隊がいたので、永元一等兵を預けて早速裸になって川を渡り、向岸に付いた時後方で銃声がひとしきり、落伍者の何名か犠牲者が出たらしい。その夜落伍者四、五名で夜通し中隊の後を追ったら前方に大きな川があり、その手前で渡河準備をしている中隊に追い付きほっとした。
新塘部落はすぐ目の前で、友軍が三機で爆撃していたが余り敵は姿を見せなく難なく占領。その夜はバイアス湾から上陸して来た野戦経理から清酒菰かむり一樽、その他下級品があり部落にもメリケン粉がたっぷりあり、団子を作り黒砂糖をまぶしたら中隊ぜんいん大喜びで、中隊長は大体長に食わすのだと大隊本部へ持参した。飯の残りの焦げ付きでお茶代わりに沸したらこれも大歓迎であった。
作戦終了と共にまた舟で広東に帰り古巣の福和墟警備、その年の十月末帽芳山掃蕩作戦の名のもとに五日出動したが、掃蕩作戦とは名ばかりで実は肉や野菜の調達作戦で、豚や牛を多く捕えて帰隊した。十一月に入ったら急に異様な空気が伝わってる。広東に外出した兵の話では現地人(中国)がシイサン(先生)シンガポールかと尋ねる次第で中隊も中山に近い沙村という部落に移動。高い塔のテッペンから縄梯子で、武装したまま降り、下には舟艇を形どった台を波で揺れる状態にした上に飛び降りる訓練ばかりをやらされる。この時すでに兄弟連隊は行方不明となる。
話は前後するが沙村に集結する直前恨みて余りある事件が起きた。それは石橋塘から増城の中間にある坑貝橋事件で第一中隊から分駐していた一ヶ小隊の玉砕事件である。橋は焼く三十㍍位。橋の袂に宿泊所がある。道路上に円体壕があり、軽機一丁一ヶ分隊で昼夜立哨していた。丁度其の付近には連防隊と名付けられた現地の保安隊の様な組織が、一応日本軍も認めた組織であるが、その旗を先頭に立て約三十名の現地人が来たのを法規通り袂で止めていれば良かったのであるが、油断して橋を渡らせてしまい、円隊壕の前で急に拳銃で攻撃され一発も発射することもなく全滅。下の宿舎に昼寝などしていた兵隊も皆殺しにされ軽機、てき弾筒、その他の兵器も残らず持ち去られてしまった。
下の河で褌一つで洗濯していた初年兵が石橋塘R本部まで褌一つで駆け付け急報したそうだったが、この初年兵の生きていたのがいけなかった訳で、全員玉砕なら部隊長も面目が立った様で、軍隊というところはそんなものだったらしい。中隊長とその時生き残った初年兵は軍法会議、因果を含められ、南進作戦の直前なので死場所を与えられ、シンガポール攻撃のブキマテで華々しく戦死したそうである。
五十六連隊はすでに広東から乗船行方不明で我々も十二月初旬、連隊の夜間演習の名で沙村近郊の林の中で一時間大休止。知人との最後の面会。ここで川棚出身者、宮崎軍曹以下約二十名位い集まりいよいよ行くなあと緊張したものだった。
間もなく広東から乗船四隻からなる輸送船は皆一万㌧級の新鋭貨物船で、たしか関西丸という船に乗った。五十六連隊がコタバルに上陸した事は船で聞いた。出港して二日目位いで佛印のカムラン湾に入港、敵の魚雷が航跡を残して通り過ぎたが多くの人は気づかなかった。カムラン湾(今のベトナム)の南端で、かつて日露戦争の時バルチック艦隊が物資補給や修理のため寄港した港で港内には佐世保所属の第三艦隊が入稿いていて心強かった。
ここで一週間近くも待たされ、師団主力は マレー半島を南下しているというのに不思議でならない。後で聞いた話だがマレー半島の進撃が阻止された場合は、我らの主力はマレー半島の南岸に敵前上陸する筈だったそうで、主力の南下だ意外に早く、その必要がなくなりマレーの北端、タイ国境に上陸。早速汽車で師団主力に合流すべくタイピンと言う駅まで来た時、五十五連隊第二中隊は英印軍の潜水艦基地を占領して、次期戦線のスマトラ進攻の準備をせよ、との命令で大隊と別れルムト港占領。敵はすでに逃げていたので大した戦闘もなく、船艇の狩集めやら桟橋作りに追われていたら、間もなくスマトラ(蘭領)が降伏したのでその必要もなくなり、またまたシンガポール拡進する事になったが、その時はシンガポールも降伏し、我々が到着した時は重油タンクがくすぶり戦車やら砲やら、あちこちの戦闘の激しさが生々しく、特にブテキマ高地あたりはひどかった。
早速敵兵舎の一角に宿泊する事になったが、市内も近く一旦ジヨホール迄下る事になり、ここで駐留する事になって本当から脱走して来る英印軍の監視やクワラルンプールに通ずる道路警備をする事になった。
ジヨホールの宿舎についた夕方である。中隊長当番の永元と言う初手兵が可哀相な事になってしまった。それは、食事準備をしようと燃える物を集めて火を付けたが中々燃えないので、付近にあった一升入りのビンに油らしき物が入っているのを、火に注いだらガソリンで一度に爆発して飛び散り裸の上から火だるまとなり、中隊長室のある二階迄かけ上がり、中隊長が毛布をかぶせて消し止めたが全身火傷、その夜の内に死亡してしまった。
ここでは休養はすべてチャーチル休養で、戦利品ばかり、タバコは缶入りが多く、パイン、黒ビール、野菜缶詰等一時は相当豪華なものばかり。ジヨホールからシンガポール島へ十㍍幅の陸橋が通じていたが、至る所地雷爆破されていた。この海峡の海は浅く渡河戦の残骸があちこちに散らばっている。ここで私は腹の調子が悪くなり始め余り気にしなかったが、度々ひどくなり下痢に閉口した。診断を受ければ入院させられるので、ここで入院したら簡単に満期も出来ないと思って、衛生兵に薬を貰ってやっと治した。立派なアミーバ赤痢であったが若さで押し切った。
ここでは、時々共産ゲリラが北方部落に出るとの情報で掃蕩めいた事もあり、ゴム林の中を行軍した畑のある所ではパイナップルが植えられ英国人の経営者がいなくなり、印度人の使用人が二、三人残っているだけ。一面のパイン畑に熟れすぎたパインが強烈な芳香を放っていた。思い思い帯剣で叩き割って食べたが、缶詰よりたしかにうまかったがいぼいぼの下の小さなとげに舌をやられた。もうここらで帰国できるのではないかと話合っていたらまたまた転進命令。連隊はビルマに進撃と言う事になり、がっかりした。
伝え聞くところによると、一応内地機関の話もあった様だが、牟田口師団長が南方総軍に日参してビルマ進撃を懇願したとか、一将功成り萬骨枯るとは。シンガポール港より乗船。ビナン沖を経由してラングーン上陸、直に汽車輸送、トングー駅に着いた時は駅通りは盛んに燃えていた。ここで下車、エダッシュ部落よりまたまた迂回作戦、ジャングル地帯に入ったのでシンガポールから持って来た自転車も皆んな捨ててしまった。乾いた砂地で自転車が動かないのである。軍靴もめり込んで歩きにくい事この上無し。蒸し暑い乾期で三日三晩水がなく閉口した。溜り水を見つけると全く泥水でおたまじゃくしがうようよしていた。布製のろ過器で吸い上げてみるが臭くて飲めたものではないが喉をうるおすため、目をつむって飲んだ。三日目やっと水の流れる川の線に出た。皆んな着のみ着のまま川に飛び込んだ。そうしてがぶがぶ飲んだ。それがいけなかった。川から上がって小休止の間に、眠ったまま起き上がれない兵隊もいた様だ。ここまでに随分落伍者も出たようだが歩き初めてから次々落伍者が出て兵力は半数になった。私も落伍した。真っ暗な夜道なので方向でも間違えたら大変だ。四、五名の落伍者ととある民家の前で休んでいたら、人の良さそうな老婆が出て来たので何か食べるものはないかと手まねで言ったら、白米の残りと黒砂糖を出してくれたので皆んな大喜び。ビルマ人は我々を救世主と思っていた。
翌朝中隊の後を追ったらすぐ前の部落で中隊も昨夜夜営して山の方へ出発したばかり。元気付いて後を追うと前方の山の中で戦闘が始まったらしい、盛んに銃声がする。左眼下にビルマ援将ルートのかなり立派な道が見え、退却する敵が水を求めて山へ逃げ込んできたのである。谷間の凹地に枯れた川があり、砂を少し掘ると水が出るのである。双方突然の遭遇で混戦状態となり、我が中隊も九名の戦死者を出してしまった。(この高地を白塔高地と名付けられた。エジンというところである。)戦死者を仮埋葬して追撃、夕方広い道路に出て銃を緒横に背のう枕で道の両側に大休止していると、後方から続々と英印軍のトラックが来る。良く見ると友軍の輸送部隊でマレー、スマトラで占領したトラックばかり。我等の所でストップ、大村の兵隊はいないかと呼んだので、こちら大村出身の五十五連隊だと名乗るとぞろぞろ降りて来て名乗りあった。
平島の岩永中尉も中隊長として乗り合わせていた。この部隊が襲部隊で我らを追い越して右の方へ、シャン高原へ進攻したのである。我らも間もなくトラックでマンダレー方面へ進撃。マンダレーの手前六里ばかりのキヤフセという所へ来たら急に車が止まり、先頭で激しい戦闘があり、我らが到着した時戦死者、負傷者がゴロゴロ横たわり見るも無残な姿であった。尖兵中隊の九中隊の兵で、キヤフセの部落に退却中の敵が戦車五、六台で反撃して来て、たちまち全滅したらしい。
弔い合戦とばかり友軍の歩兵砲で敵戦車数台血祭りに上げ、敗走する敵を追って文字通り六㌔行軍以上で急追した。途中川幅は十㍍位いの、水深は相当あると思われる急流の川に出て渡河をためらっていたら、牟田口師団長が馬に乗り、鬼の様な真っ赤な顔で何をぐずぐずしとるか、何故泳いで渡らぬか、と怒鳴った。装具のままとても泳いで渡れるものではない。
間もなく船舶工兵が一本のロープを張り、十名位い舟艇に乗りロープを手繰って渡河した。それからはもう意地である。後に続けとばかり六㌔行軍は七㌔行軍となり殆ど小走りである。後を振り返ると中隊の間隔もとぎれとぎれで、一線を五十六連隊に交替させてマンダレー一番乗りをさせたかったのどろうが、停傳が五十五連隊止まれの繰り返しくるのだが、聞こえない振りして益々早くなる。
マンダレー市街が見えて来た。二中隊止まれの命令を大隊長が伝えに来た時は、中隊は参会して南門を占領した時で、大隊長も苦笑していたそうだ。直に市内に敵伏偵察のため平田将校斥候が出され、間もなく市内に敵影なしとの報告がもたらされ、手前五、六里の所から撃出された砲弾(十五㎝硫弾砲碑)が至る所で破裂していた。やがて市内に迫り一番乗り部隊として報道班のカメラに収まった。
マンダレーはかつてビルマ王の城があり佛都としても有名で、西側にはイラワジの川の流れ、これに唯一鉄道橋が架かり、敵が退却の時爆破したらしく(友軍が敵の退路を断つべく爆撃したとも伝えられ)て破壊されていた。中央の王城は二㌔平方煉瓦壁で囲まれていた。北方に有名なマンダレーパコダが小高い山の上に輝いていた。一日休養しただけでまたトラック輸送、シャン高原へ残敵掃蕩、ラシオの直ぐ手前で作戦完了、ロイレムという所に駐留する事になった。ここには桜の木があり、赤松の木があり、野菜も大根、白菜、葱など日本と変わらない。特に馬鈴薯はうまかった。シャン高原は英国官僚の避暑地で別荘あり、牧場あり別天地の様だった。暇な時は溜池で魚釣りなどしてのんびりした。
一ヶ月位いで一寸南下した所でカローという所へ移った。ここでまた補充兵が到着した。上組の有川君など来ていた。ここにも二ヶ月位でいよいよマンダレー集結、今度はビルマ西方で印度国境に近いカレワという所へ一線交替。ビルマ進攻の時英印軍の退却ルートの要地で、イラワジ川支流の合流点では川幅二百米でこの川をさかのぼって二十里位いの所だったと思う。三十三師団が守備していた所だ。私は衣類梱包輸送のため一週間ばかり遅れて連隊本部と一緒にこの川を水車式の船でのぼった。蒸気機関で薪を燃料に水車を回す始めて見る旧式の船で、折から増水したチイドウイン川をあえぎあえぎ時には押し戻されてのぼった。途中始めて敵機一機飛来したが兵隊は船倉にいて、甲板には現地人の船子達がいたので攻撃は受けなかった。
カレワに到着、中隊へ復帰。ここで記憶に残るのは初年兵の暴発事件で古兵が立哨して帰った銃の手入れをしていた。勿論弾抜きを忘れた古兵も悪いのだが、初年兵同士向かい合って手入れしていて片方の一等兵が思わず撃鉄を引いてしまい暴発、それが幸いにも前の銃の照星項に当たり照星が吹っ飛び、相対の一等兵の目の上に突き刺さり、肝心の弾は天井を突き抜けてしまった。二階は下士官達の部屋で全く不幸中の幸いであった。
ここには連隊本部が置かれて我々は間もなく二里ばかり上流のトンナンという部落に前進。ここで約一ヶ月守備に着く。一週間経った時中隊の糧秣補給のため部落の丸木舟似二隻、船子二名、それに使役兵四名連れて川下のR本部へ行き、糧秣受領、チンドウィンの対岸へ渡っていた時だった。
敵軽爆六機、それに戦闘機四機が飛来した数機の敵機を見たのは初めてで、最初どこへ飛んで行くのだろうと物珍しく空を眺めていた。急に体型を変えて一機ずつ急降下を始め、対岸の高射砲の陣地目がけて爆弾投下、始めて見た爆撃である。始め水の様なものと思った投下物は白い糸の様な線を引き、急に黒い点になりゴオという落下音に変わったと思ったら、次の瞬間目もくらむ光と破裂音、次から次と我らが渡っている川にも落ちてきた。
先ずビルマs船頭が川の中へ飛び込み、船はくるくる回って流れ出した。まだ岸までは二十㍍位いある。皆んな飛び込んだ。幸い足が底についたのでやっと舟を支えた。上からは破裂片がバラバラ落ちてくるし戦闘機は機銃掃射。ふと前の兵の肩から鮮血が吹き出ている。これは大変と抱きかかえる様にして砂原を岸までたどり着き、柳の様な木の影に(名を忘れたが佐世保の勝富町の遊郭の長男である。田中?)寝かして応急手当、高射砲隊にも負傷者が沢山いて衛生兵の手が空かないので、止むなく敵機の退却するのを待ってR本部の医務室に運び込んだ。
中隊に帰り着いたのは夕方だった。トンナンからまた十里程上流のマツウという所まで逆登り、敵状偵察や陣地構築に忙しかった。このあたり一歩山に入るとひどいジャングルで吸血ヒルが繁に糸でぶら下がり野猿は一斉に騒ぐ。新任の見習仕官が杭切りに一ヶ分隊を連れて行き、作業の最中に大きな錦蛇を見つけて口を開けたところを小銃で射殺して持ち帰った。長さは四㍍程で胴回りは子供の頭程もあった。部落民が食べるからくれと言って早速料理したのを食べてみたが何だか気味悪く変な味がした。ここではすっぽん料理がおいしかった。
ここで一大失敗をした。十七年の正月も間近いというので餅を作ろうと中隊長が赤いもち米を、十二バスケット(約六俵)を村長に依頼して寄せ集め、臼もセイローも現地人に頼んで急揃え、杵は生米で作り、敵機がうるさいので早朝蒸していたら早速敵機が一機飛来した。火を消す暇もなく、退避十分もして出てみると餅米は真っ黒焦げ、こんな事で二回敵機が来たが火が燃えているだけで別段怪しみもせず攻撃は受けなかった。やっと昼頃終わり早速倉庫に入れた。
それから一週間位いして隊長が兵に分配するからと言うので開けて見たら皆んな赤かびで半分腐って食べられなかった。現地人が餅を作らない訳が分かった。現地人は餅の代わりに青竹を筒にして餅米を入れ、水を入れて上にしっかり草の栓をして、たき火に立て掛けて、外が真っ黒くなるまで焼いて内側を少し残して保存食にしていた。人間の知恵である。
正月始めいよいよ特進命令。マンダレー王城内に集結。もうこの頃から友軍機はほとんど見ず、敵機は益々図に乗り毎日の様に飛来す。王城内にいる時、夜中に一機襲来して照明弾
(落下傘付き)を落とす。マンダレー市内は昼の如く、しばらくしてから爆弾投下、それが友軍の野戦弾薬庫に命中し、ガソリン缶に引火して弾薬とドラム缶が明け方迄爆発し手の付けられない大被害である。
 それから直ぐサガインミイトキイナに通ずる中間のウントウに進駐。敵の約一ヶ旅団の兵力が北部のチイドン河を渡河するらしいので、ウントウから西二十㌔ばかりのピンリブという所の要所で待機していると、敵がいよいよチイドン河を渡り進駐してくるのである。この敵は英印軍の特攻部隊みたいなもので、マウトバッテン中将の率いる一ヶ旅団で、その目的はビルマ西部の唯一の鉄道を破壊して日本軍の補給路を断ち、部隊は龍部隊の守備する緬支国境へ逃げ込む作戦であったらしい。それをマンダレー北方のデルタ地帯に追い詰める。
 ウント北方の茶園という部落に敵の主力がいるとの情報で第二中隊第一小隊が吉田中尉指揮で索敵行進中のトラックに気づいた。敵が待ち構えて一斉射撃、吉田中尉はトラックの上で悲壮な戦死。山下伍長指揮のもと的と交戦、我が方は吉田中尉以下十六名戦死。敵も将校以下相当な戦死者が出たらしい。敵の左官将校と当番兵を捕虜とす。
 我々も一小隊の弔い合戦と直に敵を急追する。敵は無線で飛行機と連絡を取りながらパラシュートで糧秣や弾薬の補給を受ける。敵の輸送機が飛んで来たなと思う数㌔先の方でパラシュートの花が咲く。それと言うので駆け付けて見るとすでに敵影なく後には持ち切れない物資、弾薬等散乱している。ケース入りの大事に包装された梱包があったので中を開けて見ると丸くて細長いケーキの様なものがあり、さてはケーキだとばかり雑のうに詰め一本を口に入れると甘いのである。炭坑出の兵がいて、とんでもないダイナマイトだと言ったのでびっくりして捨ててしまった。少し飲み込んだ人も居たようだ。敵が鉄橋破壊のために輸送したものらしい。
 得t期をいよいよイラワジ河の右岸迄追い詰めた。敵は馬を捨てて裸で河を泳いで渡ったばかりの所へ追い付いた。ロバが主で将校の乗馬らしいアラビア馬が三、四頭混じっていた。主人を失った馬達はおとなしく捕まった。丁度大隊の大行李班は馬がいなくて困っていた。友軍に馬がないという事は実はシャン高原を下りる時、日本馬は使い物にならない(暑いので)という事でみんな置いて来たのだそうで、それがロバという事でR本部でも喜んだ。渡河した敵は丸腰で三々五々、また印度の方へ敗残兵となりその多くは捕虜となり、マウトバッテン中将以下数人チイドウイン河を泳いで渡河、印緬国境へ逃げ帰った。
 そこで我々は、イントウと言う所よりまた印緬国境の方へ西進する事になり、途中アラン山脈を超える。この山は約二十里ばかり民家もなく道らしい道もないひどい山越えであった。やっとチンドウイン河の線につき、ナバという部落に着き、ここに陣地を築き敵伏偵察の任につく。対岸の部落には英印軍がいて、時々的が偵察に渡河して来るのである。川幅は広い所で六、七百㍍位いである。ここで桜井伍長の指揮する一ヶ分隊が敵と遭遇、敵の一人を捕虜、一人を連れ帰ろうとして助けに来た敵と戦闘になりこちらも一人負傷してしまった。私も一ヶ分隊引率して偵察に出かけた。対岸の部落の川端で敵兵が水泳しているのが双眼鏡でよく見えるのである。
 その後一寸さがってシンラマンと言う部落で、物資収集の任につく。現地人を使ってジャングルに豊富に自生する竹を切り倉庫作り、高い床の上に米を貯蔵するのである。これが、後で三十三師団の印度進攻作戦の糧秣集めだったのだ。そして前にいたナバがチンドウインの渡河点であったらしい。何しろ敵が近いのでうっかり煙も立てられない。一寸でも煙が見えると五分も経たない内に敵機が飛来し機銃発射するのである。米集めは付近の村長が協力。荷役には約二十頭近い象部隊が編成された。野象も多く、ある時倉庫近くの分哨から米倉庫が野象に襲われ、米が食い荒らされているとの報告で駆け付けて見ると、倉庫は破られ散々米が食い荒らされていた。
 私は収集の任務だったので現地人とも仲良く時には食事も一緒にしていたが、ある日村の青年が二人来て小銃二丁貸してくれと言うので不審に思い、良く聞いてみると野象と撃ちに行くのだと言う。森尾曹長と相談して分捕った英軍の小銃を貸したら四、五日してから喜び勇んで取って来た女象を一頭仕留めたらしく、肉は部落で食べるのだと言って、大変珍しいと言われる女像の象牙を一本土産と言って私にくれた。長さ七寸位いでそれに四、五日かかって穴を開け、やっと一本のパイプに仕上げた。日本へ記念に持って帰るつもりで大事にしていたが、満期でラングーン競馬場迄来た時、図のうに差していたら一寸のすきにさしくられてしまった。
 こうしたある日、中隊長がにこにこしながら下仕官室に現れ、岩本喜べいよいよ満期除隊だ、と告げられしばらくは信じられなかった。翌日中隊全員任務交替。三十三師団の交替要員が来たのでまたまたアラカンを越えてカーサーに集結。多くの戦友と別れを惜しみ設営要員としてカーサーを発つ。

 いよいよ満期者の集結も終わりラングーン港より乗船。思えば悪戦苦闘したビルマとも多くの戦友を残しお別れである。船は陸地よりにマレー半島西寄りピナン島に、ここで一応上陸。ここには友軍の潜水艦基地があり伊号潜水艦が二、三隻入港していた。有名な蛇寺もある。ここに一週間、そしてマレー半島タイピンの駅から汽車輸送でシンガポールへ、ここではかつて英印軍宿舎であった南兵坫に泊り、ビルマ増援に向かう兵と一緒に泊まった。下組の吉岡上等兵も元気にビルマに向かった。
 それから間もなくシンガポール港より四隻の戦闘船団を組み、海軍駆潜艇一隻に守られて出港。   下級品のビールを飲み満期気分になっていたら、二日目の正午頃ドドンと腹に応える音がしたと思ったら急に甲板が騒がしくなり、対潜砲が鳴りだした。甲板にかけ上がって見たら直ぐ横を航行していた重油満載のタンカー(一万㌧級)がマストの高さまで炎が上がり燃えている。甲板には船員達が右往左往、ボートを海に降ろすのだが沈没寸前のタンカーから流れ出す重油に火が付き一面火の海、さながらの生地獄である。機雷投下する度に魚雷が命中したのではないかとびくびくしながら航行する。船員達に聞いたら新南群島(海南島)とボルネオの中間の地点である。間もなく駆潜艇は、無事の航海を祈る。と打電して新南群島の方へ消えてしまった。残る三隻は十四ノット全速でマニラ港目指してジグザグ航行である。
 陸軍部隊は海上での敵には手も足も出ないのである。夜に入って一睡も出来ず寿命の縮む思いである。夜明け頃前方から波を山の様にかき分けて突進して来るものがあり、すわっと緊張すると日本の駆逐艦が一隻、機能の沈没現場に急行するらしい。不安な一日を過ぎてやがて陸地が見え始め、マニラ港に逃げ込んでほっとした。ここから台湾の方に戻るのだろうと思っていたら、上陸にさせられてしまった。
 それから旧マニラ城内の南兵坫折から雨期でうっとおしい三ヶ月をここで過ごしてしまった。丁度マニラ議事堂近くのリサー広場の隣で何もすることもなく宿舎の前に歩哨として立つ事になったが、何しろ全員下仕官で、曹長司令で伍長軍曹が立哨しているので外を通る兵隊はうっかり欠礼し、うっぷんばらしも手伝って片っ端から呼び付け、司令室でビンタ、外出の兵隊には正しく鬼門であったろう。フィリピンの最後の玉砕地点がここなのである。
 十一月半ば、やっと内地へ向かう船団が編成され出港前日現地で活躍している野村という人が訪ねて来た。長崎出身者が居ると聞いて尋ねたと言っていた。外出が許されこの人が一流のベビホテルに案内してご馳走してくれた。その人は中学時代マニラに密航して今では子分も多くボス的存在で、父親は波佐見の校長を務めた事もあると話していた。竹松の郵便局に姪が居るから帰ったら元気で居るからと伝えてくれ、と伝言したので帰国直後に伝えたら大変喜ばれた。何しろ二十ばかり音信不通だったそうである。
 今度の船は特殊船で陸軍の飛行機を専門に運ぶ船で速力も二十ノット、発着は出来ないが飛行甲板が付いていた。相変わらず駆潜艇が一隻護衛、日没後密かにマニラを出港、二時間ばかり走った突然、砲と機銃が火を引き出した。すはとばかり甲板に掛け上がった時、青い夜光虫の航跡を残して船の右舷すれすれに魚雷が通過した。危うくかわしたのである。暗夜の事とて敵も油断していたのか浮上したまま魚雷発射したのだ。友軍の機関砲弾が敵潜の甲板に当たって火花が散るのが良く分かり、早速機電投下。翌日駆潜艇の報告で其の付近に重油が一杯流れていて確かに撃沈したらしい、との報せであった。
 それからやれやれとほっとしていたら風が段々強まり暴風雨となり、暴風の難所バーシィ海峡の真っ只中である。嵐は益々猛威を振るい船はきしみて気味悪い。今にも二つに折れるのではないかと思われる。遂に飛行甲板の全部が折れてしまった。船員達もこんな嵐は初めてだと言っていた。二十ノットから出る船が一つも進まないのだ。一ノットも出ているでしょうかと船員も船酔いで大変である。でもこんな嵐だと魚雷攻撃は安心だと苦笑していた。波長が長く高い所では魚雷は全然駄目らしい。
 翌日やっと嵐もおさまり台湾の陸地が見え出して南端の高尾港に入港した。入り口の小高い丘に日の丸が翻り、やっと日本に来たと喜んだ。高尾港に二日停泊していたら急に空襲警報が鳴り出した。内地ではないが日本が初めて空撃された日だった。新竹州がB29に相当やられたとの事だった。翌日待ち合わせていた十二隻の輸送船団と合流して都合十三隻で台湾の西岸沿いを北上、中国船の後二隻めの貨物船に命中、沈没するまで約三十分もあったので人員は救助されたとの事である。
 それから揚子江から一寸のぼった所で仮泊。いよいよ黄海を横切り朝鮮南端経由玄海灘を通過、関門入口の似島検疫所一時上陸。ここで煙草を刻み、キセル煙草はなつかしく甘かった。それから関門通過宇品上陸。臨時列車で各々の原隊へ。大村へ着いたのは十二月七日、何しろビルマ出発の夏服で寒くて震えていた。原隊では温かく出迎えてくれた。
 十八年十二月十三日召集解除。家人にも知らせる術なく若干の私物を預けて一人、途中役場、お寺、八幡神社に挨拶して帰宅したら家中みんなびっくりした。

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